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BLOG-2020/4

こんばんは。閲覧ありがとうございます。

白古と申します。

4月の終わりとなりました。今月の振り返りを五つほど書いています。


無常

最近「無常だな」と改めてよく感じます。

今日当たり前だったことが次の瞬間変化するかもしれないということを

考え、感じる時がやってくるんだなと、思わざるをえない昨今です。

時代も自分自体も、少しずつ変化せずにはいられないものです。



二度とない景色や、二度とない経験、そんな言葉で価値を与えたり、

変わっていくことを時々忘れたりしますが、

常に、全て二度とないものなのだと思います。


バトン

Twitterで「絵描き繋がれ」タグのバトンを渡していただきました。

自作を載せ次に渡す人の指名をしていく形。


芸能人の方やミュージシャンの方、それぞれの方面でいろいろなバトンが見られました。

私はこういう事は初めてだったのでとても嬉しかったです。


そして私から指名させていただいた作家の方々、受け取っていただきありがとうございました。

やり取りをした事が無い方も突然指名してしまい、ご迷惑をお掛けしたかもしれません。失礼致しました…。

お忙しい中本当にありがとうございました。


尊敬の念を込めお送りしたことを、どうか言い訳にできれば幸いです。

描く人も見る人も、このように繋いでいくのはどのようにご覧になられたでしょうか。お家にいる時間が増えている中、少しでも楽しんでもらえたり、作家さんを知るきっかけが出来れば有意義なのかなと思いました。



落描き

4月に入り、先々月から引きずっていた「描けない」気持ちから脱却すべく、

とにかく描いてみようと落描きの投稿を始めました。練習と絵柄の模索を兼ね。


テーマがあると良いと思い、pixivの「今日の創作アイデア」に則りました。

・今出せるものを出す

・胸像になりがちな人物は違う構図を意識

・好みの画面とは

そんなことを考えつつ。勢いで描いたラフを清書。

この勢い任せのラフの形が反映されているので、結果の絵におかしな箇所が出るな、と確認。


12日間やってみて、自分の好みや課題も見えてきました。練習というより、模索が大きかったです。


「らくがき」について思う事がありました。

今のところ、定義するなら「活動の制作物としないもの」。

(とはいえ無断転載無断使用などはダメです。)

今の自分に何が出せるかの確認や、息抜きにザラザラ描いたり。良い点は、楽しいし、息抜きが別の作品への集中に繋がる事。

でも私の場合、それは人に見せるようなものなのか…。

「らくがき」の語には、投げやり感や、無責任感があるようにもとれます。

SNSに上げてみてこう思ったので、今後は、言葉や表し方を考えていきます。

花に囁く物語

gallery hydrangea様企画のweb展覧会『花に囁く物語』

web展覧会の方に参加致しました。

(Twitter #花に囁く物語 でご覧いただけます。)

期間前に知った時、是非参加したいと思い、

それまでどうも描くことが出来ない、沼の中にいる様な感覚から、

抜けた気がしました。

実力が足りなくても、今できるだけの画を作り、

一人でも見てくれる人が居るなら幸せじゃないか、と思い。

この気持ちの変動は私にとって大切な感覚でした。

企画して下さったギャラリー様に心から感謝しております。


ここで制作した「縫製される祈り」について少し書きます。

“存在論”についての絵です。

下に居るトンボは

日本では縁起が良いイメージがあったり、世界各地では悪魔的なイメージと結びついたりするようです。


初め、衝動のまま描き、色を塗っていました。

ところが完成間近で「これは出せない」と判断する絵になっていました。汚くなってしまって。


その時、一枚にかけた時間が無駄になった、一枚の絵も完成させられないのかと不安が顔を出し、

「失敗した」とTwitterで弱音を吐いてしまったのですが、

すべきでなかったと思い、ツイートは削除しました。


失敗したけれど、

作品として出す気概で描いたものは、らくがきではもちろん得られない練習になった、と後になって感じることになりました。無駄ではなかったです。

しかも、作品を生み出している人は重要な失敗も練習も何度も何度も重ねていることを私は思わなければならないとも。

一枚失敗したから何だというのか、自分に怒りも湧きました。

心が弱っていると、視野が狭まって意固地になります。

などをふまえて、

ペン画の今回の作品では好きな線に集中し、他の色は使わないことにしました。

白と黒の力強さが好きである事に正直に行こう、と、

「縫製される祈り」を描きました。

見てくださった方、ありがとうございます。




日曜美術館の

「疫病を越えて 人は何を描いてきたか」

を見ました。心惹かれたので少し触れます。

〇日本美術は、当時原因や対処法が得られなかった疫病に「鬼」という姿を与えて、絵巻などに残して視覚化することで、病の理不尽さと向き合った。見る人にとって心の準備になり、安心感につながったのではないか、という見解。

〇また、金箔を散りばめた豪華なお経を作ったり、京都祇園祭の様に美しく華やかな祭は、災害や疫病の苦難に立ち向かうための祈り形であったという事。

華やかであればあるほど、それほどの苦難があり、祈らなければならない事態があったことが見えてくる、という様な内容。

〇ヨーロッパの美術では、Bernt Notkeの「死の舞踏」で死というものを考えたり、

暗い歴史を描いた作品では、繰り返さないよう後世の人は学ぶことが出来ると。



今も、この事態がいずれ終息した後も、

生きる中には祈らなければならない事態が在ると思っています。

美術や文学作品を通し、形に残すことが尊い事と、私も信じたいです。

 

来月は、

5月25日からGALLERY ART POINT 様で『Imagination』に参加致します。

本来、実物を見て欲しいと心から思う所でありますが、

心を込め制作をしていますので、期間になりましたら、動画配信やSNSなど、web上でどうかご覧いただければと思っております。

それでは

お読みいただきありがとうございました。

白古泣


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