閏年の2月最終日、29日ですね。
スランプです。
今まで、自覚したことが一度もありませんでした。そう仰っている人を見かけてもなんだろう…と分からないでいました。
ですが、今まさにそれなのだと思います。
昨年までは描きたいものが山ほどあり、とにかく形にしていきたいと考えていました。
今はいったい自分に何が描けるのか、分からなくなりました。
何にしても上には上が居て既に極めている人が居る。当たり前のことなんですが…。
自分の世界を見つけ、確信している先人が居て、ものづくりや表現をしている人は山ほどいて、
自分がその作品によって癒される時があるというのに、
自分に何が描けるんだろう?
悩みが出てくると、「悩んでいるだけ時間の無駄、描きたいなら描くしかないのだ」といつもは思うのですが、
どうにも身動きがとれない感覚です。
力強い線、美しい線を、色を、描けないのは偏に練習が足りないのだろうし(だから作品を出すのはまだ早いのでは、とか)
表現したい画が、世界が、言いたい言葉が、はっきりしないものは駄目なんじゃないだろうかと、
考えていくだけ不安と不満に満たされます。
…と、いいつつ、
この文を書いたり消したりしている内に、意識がまとまってきた気がします。文で可視化するのはいいかもしれません。
止まったら本当にただもう、終わりです。
作品があるなら、見る・見ないは人次第
作品自体なかったら、見てくれる人が居たとしても、何も無いまま。
歪んでいたり間違っていたり完璧に到達できなくても、出来るだけ不安要素を削ぎながらその時持っているものを限りなく出すしかない。
…動いて、自分の事も学んで、どうするか、を重ねたほうが良いですね。
グッズのこと
最近の「petal」は、庭のバラの模写が構成の殆どなのですが、
描いている時に凄く穏やかさを感じました。理由はおそらく、無心だったから。
無心。。。
一方、「signal」は5回ほど蝙蝠を修正しました。いつまでも終わらないかもと途中思いました。感覚はやや難産。
有難いことに反応を下さる方が居て、救われる、次へのモチベーションになると感じました。
スランプの折アウトプットの程度がヒドイですが、ラフ段階のものも続けて出していきたいです。
それから、先月までスズリさんのショップ名はこのサイトと同じ名前にしていましたが、
fig ragに変更しました。
名前は「欠片、断片」のイメージです。
スマホケースやトートなど、生活で取り入れられるものに作品が存在出来たらいいと思っています。
ものすごく些細でも、誰かの記憶の断片になったら良い。Twitterで出している詩も含めて作品としています。
受け取ってくれる人が居ればなにより、幸いです。
グッズが売れたら画材を買いたい。
五月には展示を控えているので、
もがいて描きます。
コロナウイルスの不安が続く日々で
観たかった展示に行くことを断念しましたがやはりショックでした。
各方面イベントや展示自体が中止になったりと、主催される方々や参加される方こそ辛いと思います。
収束を祈るばかりです。
白古
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